子育てコラム

<勉強の環境>

 

 以前、フィリピンへボランティア活動に行ったことがあります。ボランティアと言っても、私自身は仕事の一つとして正直しょうがなくという気持ちがありました。現地での活動内容は、植樹や学校での食事の配給、子供たちとの交流でした。山間部の小学校へ行ったときのことです。その小学校の教室には窓がありません、教科書もありません。子供たちの持つ筆記用具は、日本を含めた諸外国の子供たちが使わなくなったものや売れ残ったものでした。短くなった鉛筆、小さく真っ黒な消しゴム、ボロボロのノート……、けっして使いやすいものではありません。しかし、ひとつだけはっきりとわかることがありました。それは、授業を受けている子供たち全員が先生の一挙手一投足に集中し、とても楽しそうにしていることでした。寝ている子、うわのそらの子、おしゃべりしている子、……、なんていません。塾の教師として考えた時に、理想の授業に見えました。「授業がしにくい」と感じるときは、受けている生徒の反応が無いときです(もちろん騒いで聞いてくれない時もそうですが、ある程度の経験を積むとそうしたことは無くなります)。塾と言う場では、子供の教師に対するNGの表しかたは無反応です。「シーン」と静まり返った中、教師の話しだけが一方的に進む、子供たちは顔を上げることもなく、机の上のテキストを凝視。そんな感じになります。ちょっと飛び入りで授業をさせていただいた時も(カタコト英語で)、自分が素晴らしい先生であると錯覚するぐらい、子供たちは私の言葉に積極的にそして大きな反応を示してくれました。

 

 彼らは、「学ぶことを=楽しいこと」という感覚でとらえているに間違いありません。一方日本の子供たち(教室に通う生徒も含め)にとって、「学ぶこと=楽しいこと」という図式はなかなか成り立ちません。もちろん、教室の子供たちが勉強を楽しいと感じてくれていると思う時もありますが、フィリピンの子供たちのように満面の笑顔で、といった感じでないことも事実です。

 

 この違いはなぜ?

 

 誤解を恐れずに言うと「不自由な環境にいる方が、勉強に対して能動的になれる」からだと思います。

 

フィリピンの子供たちにとっては、勉強できることは当たり前ではないということです。今日の食べ物も不安に思わなければならない環境で生活する彼らにとって、何かを学べる場は、有り難くとても貴重な時間に感じていると思います。だから勉強することが、楽しくってしょうがない、となるのでしょう。

 

逆に日本では、勉強はしたくなくてもしなければならないもので、嫌でも子供たちの眼前に存在するものです。だから、勉強の合い間に許されたゲームの時間は、楽しくってしょうがない、となるのかもしれません。まったく正反対とも言える勉強に対する捉え方があるのです。

 

 お子さんが勉強に前向きで無いというご相談を保護者の方からいただく時があります。理由として、「勉強部屋が無いから」とか「保護者の方が家で勉強を見てあげられないから」とか、お子さん本人とは別のところに根拠をおいている場合があります。勉強は、「~がなければ」できないものではありません。完璧な状態を求めがちな日本の教育環境の中で、実は何かが欠けている方が、人を成長させることにつながるようにも感じます。

 

子供を勉強に向かわせるために、大人が考えなければならないことは、完璧な環境を用意することではなく、「勉強できることは貴重である」このことを様々な表現手段を用い伝えることだと思います。

 

 教室という場に通えることの貴重さを子供たちに伝える。私の大きな役割の一つだと思っています。  (奥松亮二)